風立ちぬ、いざ生きめやも。

本日封切りされたジブリ最新作「風立ちぬ」を見て来ました。
映画館に行ったら待ち伏せしてた友達がいて、すっかり読まれてる俺。
ジブリオタのながやんは初日の初回、これはもはや常識でせうか…
「見終わったら茶でもしばこうぜ!」と、一緒に見たのですが。
なんかもう、ボロボロ泣いてしまって、すぐ帰って来ました。
これは泣く、泣かずにはいられない…なるほど、大人の映画ね。
本当の大人ほど、無邪気に恋をして、真摯に仕事に向き合える。
矛盾を抱え、葛藤を引き連れ、血を吐く思いで笑って、生きる。
オサレな人生なんて背伸びした子供なんだぜ、まだまだガキなんだ。
大人って、格好悪く藻掻いて足掻いて、必死で生きてくことなんだ。


カプロニ氏が語る飛行機の浪漫、それを氏は「呪われた夢」と呼んだ。
なにも飛行機に限った話ではない、船や自動車、コンピューターも同じだ。
文明の発展を促す全てが、等しく呪われている…氏の論調を是とするならば。
優れた科学技術は、必ず最初に流血と不幸をもたらす、まさに呪いと言える。
だが、人類の叡智が全て呪われているとは、俺は思わないようにしている。
勿論、宮さんの「地球の大自然のためには人類なんて」って話も、わかる。
だが、手にした火を他者にしか向けれぬ愚かさ、業もまた人間そのものだ。
火の熱さで痛みを知り、富と国とを焼かれても、人は火を手放さない。
そうして火を知り、それを生かして自らも生きようと模索する、それが人間だ。
カプロニ氏が二郎と共有する夢、その凪いだ草原こそが目指す先だと思う。
そこへの道は、瓦礫と残骸、死者と血肉で埋め尽くされているだろう。
それでも人は夢を志して目指すのだ…風立ちぬ草原を、生きめやもと。


ながやんはですね、ゼロ戦神話ってのが大嫌いなんですね。
その話をいつかしようと思って、いい機会になると思っていた。
でも、やめておこう…この映画の余韻を楽しむ方が建設的だ。
多くの人間が、激動の昭和で戦った…戦争と、不況と、天災と。
奇しくも出口の見えない平成大不況、震災の傷が言えぬ列島の今がある。
そんな時代に「生きよう」と言える、そのメッセージが発信できる…
これは並大抵のことじゃない、そんじょそこらの人間にはできない。
近代へと人類史が歩みを早めた、あの二十世紀初頭を生きた人達がいる。
今に倍する、いやそれ以上の苦難が続く荒れた大海に投げ出されていた日本。
それでも生きた人間がいる、では…いざ、生きめやも…と、なるだろうか。
なって欲しい…生きめやも、「生きようか、どうしようか」ではなく。
「生きよう」という気になって欲しい、そういう世代からのメッセージだ。
最後に二郎の設計したゼロ戦が、カプロニ氏の、人類の見果てぬ夢へと飛ぶ。
「ただの一機も還ってこなかった」、それでも飛ぶ、飛んでゆく。
だから飛行機は美しく、いつの時代も人を魅了してやまないのだろう。


因みに、風立ちぬで描写される日本の昭和は、絶妙なさじ加減だと思う。
懐古主義的な懐かしさもある、古き良き時代にも感じられる。
同時に、なんて荒んだ恐ろしい時代なんだと思えてもくるのだ。
誰もが懸命に生きているのは、懸命にならねば生きられないからだ。
大衆娯楽という映画ゆえに、そこまで過酷で残酷な描写はない。
だが、だからこそ、「昔は良かった」では済まされない迫力を感じた。
今という時代の我々が、どんなに恵まれ豊かで幸せなことだろうか。
あと、二郎が三菱に就職して初めて設計室に来た時の、あの修羅場。
あれ、絶対「ナウシカ制作現場に初めて来た庵野さん」だろ(笑)
黒川さんって絶対、あれは宮さんがモデルなんじゃないかと思う。
声に関しては、ここで語る必要はないと思うし、思うところはあるし。
まあ、宮さんがガチで久々に本気になったんだ、これくらいは些細なことだよ。
なにも今に始まったことじゃないから、これもこの場では秘めておく。
でも、百人見て聴いたら、百人が同じ事を思うと感じたけどもネ。


劇中、懐かしい言葉に出会った…昔、宮さんの本で読んだことがある。
「創造の限界は十年、若者の仕事は十年で全て決まる」…カプロニ氏の言葉だ。
これは天才が天才に送った言葉で、才能で仕事をする人達の話だと思う。
や、そう思わなければ俺なんかは、とっくに終わってる筈なんだし。
確かに、俺が多感で一番吸収率が高かった時期は、十年間だったかもしれない。
でも、俺は続く限り書き続けるし、それで飯を食っていくつもりではある。
凡人には凡人のやり方があるので、感銘は受けるけど無視するつもりだ。
ただ、時をムダにするなよというメッセージは、胸に刻みたいとオモタ。