青森の夏、ねぶたの夏全体に公開

今日から本格的にねぶた祭が始まり、NEWS23でも取り上げられていた。
しかし、地元青森では実は、はねと(参加する踊り手)が不足している。
若者のねぶた離れ、はねと離れが静かに、そして確実に進んでいるらしい。
かつて棟方志功先生が「夏になるとねぶたに胸がじゃわめく」と言葉を残した。
それくらい、青森の人間にとってねぶたは特別な祭、だった…過去形な。
実は、随分前からねぶた祭は衰退と廃退へまっしぐらだったのである。
祭の主体が「市民」から「観光客」へと移り、形骸化したためだ。
タイムスケジュールは管理され、服装規定は厳しく、ゆっくり跳ねられない。
跳ねる、ってのはまあ、ねぶた祭ではねとが踊ることを跳ねるって言うんだ。
昔はみんな、輪になってホイッスルを吹き鳴らし、熱狂的に跳ねたもんだ。
でも、今はこれ駄目なのよね…ホイッスル禁止、立ち止まって跳ねるの禁止。
国道は21時までに車の通行を回復させねばならないし、それしか念頭にない。
俺が幼少期から慣れ親しんだ祭の姿はもう、見ることはできなくなってしまった。
ねぶたの夜は、青森全体が燃えるようだった…鈴の音がいつまでも聞こえていた。
若い頃は友人達と跳ね、ねぶた団地にゴールしたら最後尾へと走った。
ねぶたの列は長いからね、先頭がゴールしてもまだ後ろは運行中なのだ。
まだ運行中のねぶたに合流して、まだ跳ねる…それを繰り返してゆく。
祭の本質は「非日常での発散」にある、勿論節度は必要だが過剰な規制はどうか。
今、はねとの再合流は禁止されているし、正装でなければ加わることはできない。
昔は観光客が興奮して、その場で飛び入りで市民達と跳ねてもOKだったのに。
市民の祭りではなく、観光客への見世物にしたんだ、しかるべき結果だろう。
今後どんどんはねとは減る、最近じゃ賞目的で子供を仲間に入れない団体もある。
ながやん毎年ねぶたディスってるよね…うん、その年にもよるけど概ねそう。
だって、俺が知ってるねぶた祭って、こんなのと全然違うんだもの。


母が天草100%のところてんを買ってきた、これを酢醤油とカラシでいただく。
冷たいところてんをつまみに酒がおいしい…夏はやっぱこれだね!
母は小さい頃からところてんが好きで、それはもうめちゃくちゃ好きで。
幼い頃は「ああ、一度でいいから丼いっぱいのところてん食べたい」と願った。
で…本当にそれをやったことがあったらしい、祖父母に頼んで食べたらしい。
好きなものを山ほど食べたい、どんな子供でも一度は夢見ることがあるだろう。
そして幼少期の母は、丼に山と盛られたところてんとついに邂逅したのだ。
…そして母は「美味しいものは適量あるから美味しい」という教訓を得たとか。
うん、まあ、なんかわかる…大好物でも山盛りだとげんなりするよなあ。


今夜は金曜ロードショーで「天空の城ラピュタ」を見る、もう何度目やら。
しかし、この映画は何度見ても素晴らしい、パーフェクトフィルムだと思う。
ラピュタと魔女宅は、非の打ち所が全くない珍しいアニメーションである。
特にラピュタ、これは凄い…娯楽映画のお手本のような作品だと断言できる。
俺のようなラノベを書く人間にとっても、非常に学ぶところは多いよね。
脚本、演出、コンテ、全て素晴らしい…今後百年以上は語り継がれる名作だ。
ボーイ・ミーツ・ガール、主人公の挫折と成長、夢と冒険、壮大なテーマ。
魅力的なメカニックに、ヒロインとのウラヤマシイ一時まで完備している。
それらの要素が相互に噛み合い保管しあって調和し、全ての整合性が高い。
だから、ラピュタを見てるとあっという間に時間が過ぎてしまうのである。
ひっかかりがなくスルスルと入ってきて、その流れに酔ううちに終わるのだ。
ベタ褒めだねえ、ジブリマニアの俺だが、ラピュタは珠玉の大傑作といえよう。
余談だが、我々ラノベ業界では「落ち物」というジャンルが存在する。
ぷよぷよとかテトリスじゃないよ、突然ヒロインが押しかけてくる物語だ。
平凡な主人公の元に、突然美少女がやってくる、そういう物語の総称だ。
これを何故「落ち物」と呼ぶかと言うと、ラピュタが語源だと言われている。
そう、パズーの元へとシータが落ちてきて物語が始まるから「落ち物」ね。
この場合、「何故パズーか」「どうして落ちてきたか」は重要ではない。
とにかく主人公に突然ヒロインと過ごす必然性が生じる、これが大事だ。
漫画だと「ああ女神さま」や「AIがとまらない」なんかがそうかな?
もはや各業界で様式美にさえなっている、やはりラピュタは凄い作品だね。