ながやんがもののけ姫を語るようです

俺の勝手で個人的な解釈、以前にも述べたが…
もののけ姫は、「もうひとつの風の谷のナウシカ」なんだ。
それは、年老いて成熟した宮粼駿監督の、ラストアンサーだと思う。
少なくとも、俺にとってはそういう映画で、とても大事な作品ですね。


風の谷のナウシカ、特に漫画版には、若さがあふれていた。
手探りで答えを求めて、這ってでも前に進む、苦しさと苦々しさ。
そういう、一種がむしゃらな想いが、作中に散りばめられていた。
それは、その当時の宮粼駿監督の理想を封じ込めた作品だからだ。
だからナウシカは、戦乱と天変地異の中で、自然と文明の調和を目指す。
異なる民族の対立問題や、禁忌の科学に対してナウシカが立ち向かう。
…無理ゲーである、一人の少女が背負える世界ではない。
だが、ナウシカは背負って立つ、引きずってでも歩く娘だ。
そういうナウシカに俺は魅力を感じるが、どこか遠くも感じる。
ナウシカは俺にとって永遠のヒロインだが、女神や天使に近い。
彼女こそ「非実在ヒロイン」…故に、神がかりの電波娘になってしまった。
宮粼駿監督の背負わせた理想が、無垢で無邪気な少女を変えてしまった。
無限で無条件の博愛を持ちつつ、虚無をも肯定して生きる、戦う少女。
そして、自然界と人間界、その両方をつなぐ架け橋になろうとした。
それが、ナウシカという少女の、俺のファーストヒロインの物語だ。


では、もののけ姫の中に息衝くナウシカの、その継承者は誰だろう。
ナウシカを受け継ぐ者、それはサンとアシタカ…そう、二人なのである。
ナウシカは人と文明を許し、大自然の摂理をも敬う…何者も否定しない。
そのことが彼女を、人間らしからぬ至高の存在にしてしまったのだ。
だが、サンは自然側に立って、毅然と人間と文明を否定する。
アシタカもまた、人間側に立って共存を訴えるが、摂理の不条理に抗う。
ナウシカを二人の男女に分けたことにより、物語は動き出したのだ。
二人はともに、自分の立つ立場からナウシカと同じことを訴える。
しかしそこには、理想ではなく現実を生きるたくましさがあるのだ。
どこか絵空事のキレイ事に見えたナウシカの言動ではない…
サンの憎悪は本物だし、アシタカの調和を尊ぶ精神は真剣だ。
そんな二人が出会い、惹かれて、通じ合い…そして、別れる。
もちろん、アシタカは「会いにいくよ」と言った、その未来を信じてる。
しかし、サンは山へと帰り、アシタカもタタラ場での暮らしを選んだ。
サンは自然界の摂理で生き、アシタカは人の文明で生きるのだ。
これが、最後に宮粼駿監督が導き出した答だと俺は思う。
人と自然はわかり合える、では、何をわかってわかちあうのか?
「お互いのテリトリーで暮らして不干渉が一番」だろうか?
その答を今、見る者全てが問われているに違いない。


さて、女傑系ヒロイン大好きっ子のながやん、エボシ様が好きである。
エボシ様もまた、風の谷のナウシカからあるキャラのDNAを受け継いでいる。
もうお察しの方もいらっしゃいますね…はい、クシャナ殿下です。
クシャナ殿下はですね、なんていうか、俺のマストヒロインなんですよ。
ナウシカが女神のような存在である一方、クシャナ殿下は、こう、あれですよ…
ぺろぺろしたい(爆)…や、憧れ方のベクトルが真逆なんです。
ナウシカは触れてはいけない感じですが、クシャナ殿下には踏まれたい…(笑)
俺は昔、装甲兵になってクシャナ殿下の第三軍で戦死したいと思ってたし。
さて、話を戻してエボシ様…恰好いい、本当に痺れる…のだが。
多分意図的にだろうけども、すっごく小さい人間である(そこがいいのだが)
クシャナ殿下と同じ、民に優しく敵に容赦の無い女傑系ヒロインですが。
軍神もかくやというクシャナ殿下のオーラに比べて、凄く小さいのだ。
エボシ様には、なすべき復讐も、絶対的カリスマも、泥をすすっても生きる逞しさもない。
女しか信用せず、タタラ場より目先のシシ神の首を選び、アシタカの腹パンで気絶する。
だが、クシャナ殿下よりもずっと、人間としての温かみと親しみに溢れている。
クシャナ殿下は「実は母親の仇討ち、復讐が目的」という美談で、人間味を獲得している。
だが、綺麗なキャラに綺麗な設定では、どうしても綺麗な人間味しか生まれないのだ。
時には視聴者が「うわっ、ダメだよそれー!」って言いたくなるような言動…
そうしたものも併せ持つ格好良さが、本当にいきいきとみえるのではないかな。


あー、また来年の夏ももののけ姫みたいな…最高だよな、この映画。
ジブリ映画では俺の脳内で、五本の指に入るんだよな、もののけ姫
ナウシカだろ、ラピュタ、魔女宅、紅豚、そしてもののけ姫だよ、うんうん。
…どうみても懐古廚です本当にありがとうございました(笑)