日本のサブカルチャーの片隅で

今日、録画してたEテレの「日本サブカルチャー史」の最終回を見た。
講師の宮沢章夫先生がおっしゃった言葉が、とても印象に残った。


サブカルチャーっていうのは2000年台には、『逸脱』によって表現される文化だったんだよね」


…うろ覚えだけど、そういうことをおっしゃったと思う。
そして、「逸脱」という言葉に「DROP OUT」というルビがついた。
いいね、なかなかいいセンスだと思う…ちょっとラノベっぽいね。
でも、俺は同時に思った…強烈な違和感を感じたんだ。
「逸脱」とは「物事の主題から逸れる、本質から脱する」という意味だ。
だが、それに「DROP OUT」というルビがつく、この違和感。
2000年台サブカルが「逸脱」したとして、それを「DROP OUT」と読む。
その心は…やっぱり、この番組に参加した人たちはみな、「主流」なのだ。


主流、メインストリームと呼ばれる文化…伝統芸能とかの類、芸術等がある。
それに対するカウンターカルチャーとして、サブカルチャーは存在すると思われる。
最初はそういう構図で、反体制、反権威の表現手段だったサブカルチャー
それが時代を経て独自の発達を遂げた時、それを「DROP OUT」と見る存在。
それって多分、主流文化にいる、いわゆる「上から物を見てる人たち」じゃない?
上から見てるから、それに外れた表現をDROP(落ちて)OUT(外れる)って言うんだ。
なにも俺は、それを卑屈な根性で責めてるんじゃない。
何故なら、宮沢章夫先生を始めとする出演者の皆様には、実績があるからだ。
それもあるし、10回に及ぶ放送をご一緒する視聴者として、俺はみんな好きだったから。


俺は実績もない無名の人間で、「逸脱」という言葉にルビをふる権利を持ち合わせていない。
けど、俺は「DROP」も「OUT」も使いたくはないな…外れて落ちる訳じゃないと思う。
特に落ちる…落ちるって、受動的な言葉だと思わない?
重力に捕まったから落ちる、飛べなくなったから落ちる、墜ちる、堕ちる…
サブカルチャーから進化して今を生きる表現者たちは、落ちてる訳じゃない。
俺には、「潜ってる」とか、そういう言葉がふさわしいと思うんだ。
「DIVE OUT」…主流を離れて自らの意思で、自らの重さで潜ってるんだ。
そんなの言葉遊びじゃない?って俺も思う、しょーもない日記をまた書いてる。
でも、少なくとも俺はそうだよ…必死で藻掻いて、息が続く限り俺は潜る。
静かな水面に綺麗に並ぶ、主流文化に背を向けて潜る…好奇心と探究心の海を。
もちろん、整然と並ぶ海の上の伝統芸能や芸術、健全な文化に俺は敬意を感じている。
けど、俺には俺にしかできないこと、俺がやらなければいけないことがあって、潜る。
一緒に海の底を目指す人が沢山いて、その中の大勢が泡を吐き出し浮かんでゆく。
俺自身、どこまで息が続くかわからない…けど、落ちてるんじゃない、潜ってるんだ。
それだけは言いたい、「DROP OUT」ではない…逸脱というなの潜行、穿孔なんだ。