ながやんには政治がわからぬ

まあ、デリケートな話題に触れるつもりはないんだけどね。
あまりにも自分が無知過ぎるし、教育もそれほど受けていないから。
むしろ、受ける機会を放棄して遊んでた人間でもあるから。
家の事情もあったし俺の身勝手もあったし、まあそんな感じ。


今日は節分、これをすぎれば立春…春立ちぬ、いざ飲みめやも!
なんかよく知らんが、おでんがスタンバイしてるという。
「飲もう」
「飲もう」
そういうことになったのだった。
父も母も、勿論俺も酒が好きである。
今夜のおつまみはおでん…これ、4日目のおでんである。
週末の夜につまみで食べたおでんの、生き残りに具材を足したものだ。
おいひい…この季節、おでんは本当においしい。
俺の好みで牛すじやロールキャベツを入れさせてもらた。
おいひいよぉ、らめえ!お酒すすんじゃいまひゅー!


長物家では、家族三人での飲み会の話題は多岐にわたる。
BGMはクラシックか美空ひばり岡林信康だし。
語らう内容も政治、経済、親族、スポーツ、海外情勢等さまざま。
でも、今日はやっぱりあの話題を引きずっていたのだわ。


「後藤さんが亡くなったのは、本当に残念だねえ」


父の言葉に誰もが頷く、俺もそう思う…湯川さんもそう。
本当に残念、悲しい…どんな形であれ、同胞の死はいたましい。
ながやんは国家への帰属意識は皆無だが、国土と風土への気持ちは強い。
同じ空気を吸って、同じ文化で育った人の死は、本当に堪えるものだ。
ましてそれがもし、親しい友人知人だったら…想像するだけでガクブルだ。
尊敬する先達や文化人、同業者、クリエイター、アスリート…きりがない。
けど、やっぱり何にせよ「理不尽な人の死」には怒りと悲しみを感じるね。


その上で、だ…ながやんはこう、某新聞社の記者に少し???と思っている。
日本の大手新聞社の記者が、また中東の、あの地域に入った、らしい。
らしい、なので不確定情報だと思うけど、もし事実なら俺は腹ただしい。
俺の考えはこうだ…後藤さんの死から俺たちは、少しでも多くを学ばなければいけない。
にわかに注目されはじめた、後藤さんの命をかけた活動がまずそうだね。
湯川さんを救おうとしたし、常々「世界の子供たちの今」を取材し続けてきた。
後藤さんの仕事には、信念と哲学があったと、俺は勝手に感じてしまうんだよ。
次に、後藤さんは覚悟を決めて、そのことをビデオに残して現地入りした。
そして卑劣なテロリズムにつかまり、悪辣な交渉の材料にされ、亡くなった。
ここから俺らは「あの地域は危険だ、ISISは危険だ」と…学びたいと!俺は!思う!
なにかこう、亡くなった方の残した、遺したものが生かされて欲しい、そういう心情だ。


だが、父は父で、またちょっと違う意見を持っているし、それを話してくれた。
ジャーナリストとは、ジャーナリズムとは…果たしてどういうものなのか、って話だ。
ジャーナリストはこれからも、覚悟をもってISISの支配地域に近付いていく、らしい。
それでいい…というか、そういうものだから仕方ないと父は言うのだ…少し、解せぬ。
解せぬなりにでも、筋だった理論を語られると、俺はそれもまた聞いて飲み込むしかにい。
ジャーナリズムとは常に、権力や権威とは独立した「市民の目」でなければいけない。
だから彼ら彼女らは、危険を犯して取材し、得た情報を公にしてゆく。
こんな話がある…イラクでの戦争時、油にまみれた海鳥の映像を見たことはないだろうか?
あの映像、実は「米軍が作った映像」なのだそうだ…マージデースカー!?
そういうことがあるから、ジャーナリズムは独立した力でなければいけないという。
国が、政府が、時には人民が「NO!」と言っても、真実と現実に飛び込むのがジャーナリズム…
なんだそうだ、父が言うには…解せないなりにわかるが、解せない、でもわかる。
混乱する、よくわからにい…馬鹿の俺にもわかるように話してくれ(笑)


・俺の考え
後藤さんの命が「ISISは危険、近付けば死は免れない」と伝えている。
その情報を生かさないことは、後藤さんの死を無駄にしてしまう、気がする。
ISISについてのことはもうわかったし、これ以上の犠牲は必要ないと思う。


・父の考え
どんな状況であれ、ジャーナリズムはあらゆる障害に抗い取材し、公表すべき。
権力や権威に従うことは、ジャーナリズムの本質を見失うので、よくない。
国家という力にジャーナリズムが従うようになることは、これだけは絶対によくない。


・俺と父の共通認識
後藤さんと湯川さんには、絶対に生きて帰ってきて欲しかった。
後藤さんの仕事に敬意を感じるし、これからのある英傑だったように感じる。
ジャーナリストという仕事が使命感を持った時、なんと悲しいことだろうか。


…父は団塊世代だが、先の戦争で日本中の大手新聞がしでかしたことを猛烈に覚えている。
そこからくる危機感があって、何者にも束縛されないジャーナリズムを望んでいるのだ。
でも、俺は思うんだけど…これは、俺がひねてるというか、鬱屈してるからかもだけど。
本当に志を持って使命感に忠実なジャーナリストって、本当に少なく感じて悲しい。
ジャーナリストじゃないけど記者、いわゆる「メディア関係者」でしかない人間が多くないかい?
使命感を言い訳に、ただセンセーショナルな話題と視聴率、発行部数が目当ての人間…
そういう人が多いんじゃないかと、嫌なことをつい考えてしまい、自己嫌悪にもなるさね(笑)
立法、行政、司法の全てを見張るのがジャーナリズムだとして、それが機能してると仮定して。
ジャーナリズムをどうやったら、ジャーナリストたちの資質と心意気以外で制御できるだろうか?
ジャーナリズムの公平性と正当性は、どういう形で担保されるべきなんだろうか、なんちゃって!
ごめーん、なんか難しい話というか、詮無いことを行ってしまった、ナハハ(汗)
下手な考え休むに似たり、とりあえず今日も楽しくモンハン遊んだし寝ますかね〜


閑話休題


乙女の祈り」というタイトルの音楽がある。
青森市民の方は、絶対に聴いたことがある筈である。
そう、青森市の交差点で、歩行者用信号機が青になった時の音楽だ。
実は「乙女の祈り」を作った人は、それだけしか後世に曲を残せなかった。
だが、父が言うには「一曲残すことがどれだけ難しいか」って…俺もそう思う。
俺らが今聴いてる音楽が、百年後、二百年後、千年後…残るだろうか。
残るものもあるだろうし、そうでないものもあるだろうさ。
でも、どれも価値あるものだと思うし、残らないからこそ今が眩しいものもある。
後世に残ることは一つの評価だけど、評価内容は一つに限らないとも思うし。
ただ、遠い未来の交差点で、アニソンやボカロ曲が信号機から流れ出てても…
俺は不思議だとも思わないし、そうだったから凄いとも思わないんだな、これがな。