物書きだって桜に飲んで酔えばワンドロ一本勝負するよ!
貧乏学生にとっては面白くない年の瀬も、今年はまたちょっと違うらしい。
世間は年々浮かれることを覚えて、反対にあの戦災を忘れ始めていた。
クリスマスなんて西洋かぶれの真似事まで始めて、僕はあまり正直嬉しくない。聞けば、サンタクロースなる偉人だか聖人だかが、煙突から不法侵入して靴下の中にプレゼントを押しこんでくれるとか……訳がわからない。
何はともあれ、雪に凍える帝都で今、昭和27年が暮れようとしていた。
「そもそもなんだ、人が通れるほど大きい煙突が民家にある訳ないだろう」
僕は下宿の一室で独りごちて、紫煙をぷかりと天井に溶かす。留年も決まりかけた年末、僕は憂鬱だった。半島での戦争が終わりをちらつかせた矢先に、列強各国の核実験が相次いだ、そんな荒んだ灰色の時代がそうさせていた。そう思いたかった。
まあ、本音は自己責任ってとこだろうし、真実は自業自得だったが。
そんな現実から目をそらすように、僕は視線を走らせる。
「……前言撤回。そんな民家がない訳でもない。なんとまあ、立派な煙突ですこと、ってね」
窓の外には、垣根の向こうにお隣さんが見える。
レンガ造りの洋館だ。例のサンタクロースとやらが団体さんで訪れても大丈夫そうな、立派な煙突を備えた三階建て。聞けば戦時中、さる国の大使館だったとかなんとか。
でも、僕にとっては別世界、北風にガタピシうるさい窓ガラスの向こう側だ。
――その瞬間までは。
「ん? なんだ? 今、何かが」
ズトン! と軽めの落下音で、軒先に積もった雪が少し零れ落ちた。
同時に、今まで空き家だったお隣さんが慌ただしくなる。
正月を待つだけの退屈が停滞した中、僕は思わず窓を開け放った。
悲鳴と絶叫、そして怒号。
「お嬢様! お待ちください、嗚呼!」
「誰か、誰かアヤお嬢様をつかまえてくださいまし! っ、旦那様!?」
「またアヤの奴がしでかしたのか、ええい、引っ越してきて早々に忌々しい!」
直後、お隣さんとの垣根を、華奢な人影が乗り越えてくる。
あられもない姿で着地した矮躯は、僕にはまだ小さな少女に見えた。
僕が「あっ」と言葉にならない声を漏らしたのは、彼女と目が合ったからで、彼女がこちらに駆け寄ってきたからだ。
窓辺にすがりついてよじのぼる彼女は、洋装に外套を羽織って真っ赤なマフラーをしていた。
「あっ、あの! すみません、こちらにラジオはございますか!」
疑問形とは思えぬ高揚した声音で、彼女は僕に抱きつくようによじ登ってきた。
「えっ? あ、はい!」
思わず返事をしたのだが、妙なことだと僕は首を傾げた。
有無をいわさず部屋に転がり込んだ少女は、その胸に大きなトランジスタラジオを抱えていたから。ちらりと見たが、海外製の頑丈そうなやつだ。
「ラジオなら、そこに。き、君の胸に」
「わたくしのラジオ以外に、ですわ!」
「は、はいっ!」
白い息を弾ませる少女は、ブーツを脱ぎながら肩や髪に薄っすら積もった雪を手で落とす。
窓を閉めながら、僕の耳朶にはまだお隣の喧騒が突き刺さっていた。
もしかしてこの娘が、
「突然の来訪、失礼しますの。わたくしはアヤ・キラウダ、アヤと呼んでいただいて結構ですわ!」
「は、はぁ」
「貴方、お名前は?」
「ふっ、冬木です! 冬木、ヒロ」
いや、もしかしなくても、お隣に越してきたお嬢さんのようだ。
アヤお嬢様は「そう、ヒロね」と僅かに背を反らして僕を睨めつける。薄い紅茶色の髪が波打つ中に、釣り目気味な瞳が勝ち気に輝いて見えた。
そのアヤお嬢様だが、マフラーとコートを脱ぎ捨てるなり、一言。
「それで、ラジオはどこですの?」
それだけ言って返事も待たずに、狭い四畳半の隅に自分のトランジスタラジオを置いた。設置、いや、安置という単語がふさわしいほどに仰々しく。
その無駄に荘厳極まる雰囲気は、神像を捧げる修道女の如き後光がさして見えた。
それで僕も、タンスの上に鎮座している我が家のトランジスタラジオを慌てて持ち上げる。
上京する時、父が進学祝いに買ってくれた最新式だ。
「それをそっち側の隅に……そう、そこでいいですわ」
「な、何を?」
「まあ! ヒロはご存知ありませんの?」
「呼び捨て! す、すみません……ご存知ありませんです、ハイ」
小さな少女は腰に手を当て、落胆の意を全身で表現して首を横に振る。
訳もわからず僕が萎縮してると、彼女はやれやれという調子で喋り出した。
「教えて差し上げますわ、ヒロ。今日はこれから、立体放送の試験電波が放送されますの!」
「立体放送?」
「そうですわ。……いけない、もう時間が」
アヤお嬢様は自分のラジオをいじりながら、部屋の対局にある僕のラジオを振り返った。
「そちらをNHKの第二放送に!」
「は、はい!」
「こちらは第一放送に……音量をもう少しあげなさいな」
「いや、でも隣の部屋に」
「あげなさい!」
「はいぃ!」
訳がわからないまま、扱い慣れたラジオのダイヤルをいじる。
アンテナを伸ばして角度を調節してやると、すぐに第二放送が拾えた。
部屋の隅と隅とで、二つのラジオが同時に歌い出す。
『これより、立体放送の試験電波を放送します。放送が真ん中で聴こえる位置に移動してください。繰り返します――』
その時にはもう、アヤお嬢様は部屋の真ん中で耳を澄ませていた。
目を閉じ天を仰いで、両の耳に手を当てている。
そんな彼女に見とれていると、片目を開いたアヤお嬢様が、ムッと顔をしかめた。
「何をしてますの? 立体放送が始まりますわ。こっちへいらっしゃいな!」
「はぁ」
「はぁ、ではありません! 貴方、わかってますの? この国で初の立体放送ですのよ?」
アヤお嬢様は強引に僕の手を掴むと、部屋の中央に引っ張り身を寄せた。
突然のことで僕は、自然と抱きしめる形になって息を詰まらせる。
「できるだけ中心で、中央で聴くのです! もう少し、そう、もう少しだけ後ろですわ」
「こ、こうですか」
「もう! 行き過ぎです、こんどはちょっとだけ前へ」
その時、不思議なことが起こった。
普段、ラジオと僕とをつなぐ音の線が、深みと厚みを持った響きとして包み込んできたから。
『それでは、立体放送をこれより放送します。NHK交響楽団の演奏で、リヒャルト・ワーグナー作曲……ニーベルングの指輪より、ニュルンベルクのマイスタージンガー』
瞬間、目に見えて楽曲が僕を洗った。
音楽の抱擁に、腕の中の小さな少女さえ忘れてしまう。
その温かさも、ほのかな柑橘系の香りも。
「これが……立体、放送……!」
「ああ、よかった……間に合いましたわ。本当に素敵、まるで楽団を前にコンサートホールへいるみたい」
うっとりと目を細めて、アヤお嬢様はご満悦のようだったが。
同じく、圧倒的な音響に震えていた僕との密着に気付くや……淡雪のような白い顔に羞恥心を着火させた。耳まで真っ赤になって、僕を胸に両腕を突っ張り飛び退く。
「しししし、失礼しましたわっ! わたくしとしたことが……ヒロ、ごきげんよう!」
「えっ、あ、あの! ラジオ!」
アヤお嬢様は、咄嗟にラジオを拾い上げると、もう片方の手でブーツを抱えて……裸足で外へと飛び出した。そうして、まるで灼けた鉄板の上を飛び跳ねるように駆けてゆく。
その先では今も、アヤお嬢様の名を呼ぶ大人たちの声が幾重にもこだましていた。
ドタバタと現れた新しい隣人は、そのままドタバタと古い隣家へ去っていった。
僕の胸に、色も形もあって、ともすればさわれそうな旋律を残して。
「なんだったんだ……でも、凄い。これが立体放送……」
世は高度経済成長を目前に控えた夜明け前……ステレオ放送の黎明期。
僕は部屋の隅からラジオを拾い上げると、あわてんぼうなアヤお嬢様との再会を予感していた。
なぜなら、彼女が取り違えて置いていった、彼女のドイツ製ラジオがまだ歌っていたから。
※作中の人名は実在の両親とはほぼ関係がありません。だって、昭和27年ってパパンもママンも子供だもの(笑)…あ!6分オーバー!むぎー!