可能性の獣、その功罪

ながやんは自他共に認めるガノタガンダムオタクである。
だから、どのガンダム作品も好きだし、愛好している。
反面、好きだからつい、一言発したくもなってしまうのだ。
そんな俺にとって、「機動戦士ガンダムUC」という作品は…難しい。
大好きだし、素直に素晴らしいと思う反面、反骨と反発も思う。
でも、いい作品っていうのは、そうしていろんな感情を誘発させられるものだよね。
今日はそんな、ユニコーンの話をちょっと、つらつらとね。


文芸発のガンダム作品が、こんなに広く受け入れられて、アニメになる。
福井晴敏先生の努力の賜物だし、それを支えたスタッフたちも賞賛したい。
素晴らしい作品をありがとう、俺は実は小説版のユニコーンが一番好きだ。
リアルタイムで連載を読んでたし、その技法や文脈、描写がとても勉強になった。
実はアニメは、まだep6〜7を見てなくて…今度レンタルで借りてこようかな。
そんな小説版ユニコーンで、ながやんはラストシーンだけが納得いっていないんだ。
これは、大いに異論があっていいと思うし、ながやんが偏屈なだけなんだけど。


小説版ユニコーンのラスト、主人公バナージは「可能性の光」の彼方に見る…
遠い未来、外宇宙へと船出してゆく人類の姿を、宇宙船の大船団を!
…で、ここで小説版は、∀ガンダムと直接的に結びつけちゃってるんだ。
実際、福井晴敏先生は小説版∀ガンダムも手がけられてるしね。
読んだけど、∀ガンダムのノベライズも素晴らしいので、興味ある方は是非。
最後、ロランがちゃんとソシエのところに帰って来るラストは、IF展開として嬉しい!
…あ、話が脱線した、あのね…俺は∀ガンダムって「癒やし」であり「墓所」だと思うの。
黒歴史という形で、全てのガンダム世界を内包し、全肯定してくれる、そんな場所。
それは「目指す場所」ではなくて「どこかを目指して力尽きたら、受け止めてくれる場所」だ。
俺はそう思う、本当に富野監督の優しさが溢れた、でも優しいだけじゃない…だから、墓。
SEEDも00もAGEも、勿論ビルドファイターズも、それぞれ別個の作品だからね。
全部、作った人が「俺はこうしたい、ここを目指すんだ!」って作ってあるんだよ。
でも、そうやって別々の可能性に飛び立った全てが、いつか飛び終えて羽撃き疲れたら…
そっと着地する場所、それが∀ガンダムっていう世界なんだと俺は想っている。
だから、最初から∀ガンダムを目指して、そこに繋がるラストは、俺は好かない。
ユニコーンで語られた「人の可能性の光」って、肯定ありきの内向きじゃないでしょう?


同時に、ユニコーンが語った「人の可能性の光」っていうものが、とても俺は好きだ。
「祈り」と「呪い」は表裏一体、どちらも人の善意からくるものだという、残酷な現実。
その中でも人が絶望しないのは、可能性という光があるからだろうか…?
そのことを、ユニコーンの物語は小説で丁寧に描き、緻密な世界観を広げた。
UC世紀の成り立ちから考察して構築し、その中で新たなニュータイプ論を確立した。
同時にユニコーンは、俺たちガノタにとっても「祈り」であると同時に「呪い」になった。
「やっぱガンダムはUC世紀モノだよな!」という、これは呪い…そして祈り、願いだ。
例えば、アニメ版のユニコーンには、すごくマニアックなMSが山ほど登場する。
グスタフ・カールZプラス、ネモ?にガンキャノンディテクター…そしてジュアッグ等。
敵味方共に、数えきれない数の「映像化で見たかったMS」が出てきて、華を添える。
こういうお遊びができる土壌、そのお遊びに共感、狂喜するのがガノタなんだ。
それはやっぱり、祈りであると同時に呪いだろうなあと思うのであった。