聲の形、心の形

京都アニメーションさんの「聲の形」を映画館で見てきました。
青森市は車で二時間走らないと、上映してる映画館に行けません。
これで県庁所在地ってんだから、少し寂しいですね…ま、いいですけど。
普段こういうことは極力避けてるのですが、特定の商業作品について触れます。
なるべくネタバレになる内容、優劣や良い悪いの話はしないつもりです。
できれば、一個人が感じた話として聞き流してもらえれば幸いです。


本作はアニメーション特有の完成度が、物凄く高レベルであると感じました。
絵の質、動画としての内容、そして声優さんの演技…どれも最高レベルです。
数々のヒット作でファンを楽しませてきた、京都アニメーションの力の結晶です。
同時に、そうした「技術やセンス」が優れてる故に、強烈な印象を残します。
映画やドラマ、小説等、異なる媒体と共通の概念である、脚本とテーマ…
いわば屋台骨の部分で、この作品は娯楽性を棄てていると感じました。
同時に、娯楽性を犠牲にしてまで伝えたいことを詰め込んできた気がします。
本作には「都合のいい賢者」「包容力ある大人」は、ほぼ存在しません。
作中に登場するキャラクターは、あまりにも生々しい現実の鏡写しです。
「ああ、こういう奴いるよなー」と、嫌になってしまうくらいにリアルですね。
虚構の娯楽、アニメ映画ならいくらでも楽しく面白くできた、それを棄てた。
作中には、嫌な一面を抱えて葛藤し、のたうち回る人間しか出てきません。
故意にしろ無意識にしろ、人を傷つける人しか出てこないのが印象的です。
例えば「心が叫びたがってるんだ」には、担任教師という「大人」が出てきます。
このキャラクターは、無条件に賢者、そして見守る神の立場で欠点がありません。
ですが、本作ではそういったキャラは皆無で、皆がなにかの加害者なのです。
そしてテーマは、障害者差別といじめ問題、そしてコミュニュケーションです。
未熟な十代の少年少女が、損得より大事なことを知る故の時代で傷つき、傷つける。
そういう生々しさがフィルムから出てて、圧倒されました…本当に凄いです。
この物語の大きな鍵の一つは「許し」と「赦し」だと、自分は感じました。
誰もが咎人、いじめっ子の後にスケープゴートにされた主人公以外も、全員有罪です。
でも、現実でもそうですが、人は他者を許し、赦して、許容せねば進めません。
許せないこと、赦し難い行為や事象は沢山ありますし、個人差もあります。
でも、映画を見た時「あいつは許せるな」って思えたら、いいなと思いました。
自分自身、最後まで見て主要人物のあいつとあいつは許せません、嫌いです。
でも、そう思う自分は現実では、多くの知人友人、家族や仕事仲間に許容されてます。
辛くて重くて、しんどい映画でしたが、それだけの価値があるフィルムと思いました。


次に、昨今流行ってる「感動ポルノ」という単語と概念について話します。
本作「聲の形」は、聴覚障害者の少女が登場し、話の軸になります。
その存在が「障害を持つキャラという、感動を誘発させるだけのガジェット」との声。
そういう議論が最近、ネット上であることを自分は知り、驚きました。
因みにまず、件の「感動ポルノ」という概念を自分なりに定義したいと思います。
今年の24時間テレビが放送時、裏番組のEテレで障害者の方から出た言葉と思います。
間違ってたらすみません、かなり真摯で腹を割った議論から生まれた言葉かと。
実際、自分も障害者の両親と暮らす身として、24時間テレビは好ましく思いません。
それは、24時間テレビの中で毎年必ず繰り返される、障害者のドキュメントです。
24時間テレビは、必ず番組内で障害者に目標を与え、それを達成させます。
そしてそれを「編集のない真実のドキュメント」であるかのように放送します。
それを見る目が冷ややかになりつつあることは、多分制作側も知ってると思います。
ただ、そうすれば視聴率が取れる、仕事の成果になることも事実で見過ごせません。
望む視聴者がいる、異を唱える視聴者が少ないから、方法論として用いられてるのです。
でも、障害者の方は(うちの親もそうですが)24時間テレビには否定的、無関心です。
障害者をダシに、目標を与え達成を演出し、ドラマとして演出して感動を誘う…
そこに出演した障害者の意思や利益と無関係、ないしマイナスな番組。
それを、Eテレの番組が痛烈に「感動ポルノ」と批判したのです。
ただ、需要があるから供給されること、テレビ局が営利団体であることは大事です。
客が喜ぶ商品が流通してるというのは、視聴者自身一人一人が知って欲しいです。
さて、「聲の形」はどうかというと…個人的には「感動ポルノに当たらない」と思います。
それは、アニメという媒体が既に虚構の創作物、実在の人間を扱ってないからです。
見て不愉快になる人はいるかもしれませんが、出演して不愉快になる人はいません。
「障害者の少女」や「いじめっ子からいじめられっ子に転落した少年」は、創作物です。
勿論、作中に登場する「悪意なき加害者たち」「無能な大人」も創作物、ガジェットです。
感動ポルノではないです、創作物なのでそもそも「感動してもらう」のは前提なのです。
感動させたくて作った虚構の劇を、感動ポルノと言うのは少し違う気がしました。
当然、見る側に不当な不快感を与えているなら、それは注意する必要があります。
ただ、「聲の形」は創作物、虚構で、しかも数多のアニメの一つに過ぎません。
大事なのは「こんなアニメけしからん」ではない筈です、映倫がOK出してますし。
都合のいい障害者美少女も、善良な元いじめっ子も、あくまで虚構、ツールです。
これを健全なものとするためにも、見る側同士がフォローしあう方が望ましいです。
あくまで虚構、創作だけど、怖かったね悪いね辛いね、でも現実と違うよ…
未熟な子供には大人のそうしたフォローが必要だし、大人なら自己解決できる筈。
喫煙シーンが喫煙を助長させる、なんて論理がまかり通る先にこの問題があります。
全ては虚構、楽しんで(感動して)もらうための創作で、現実とは違うんです。
それを受け取る現実の人たちは、住み分けつついい影響を受けられる筈です。


余談ですが、現実の障害者は「なんでも許容して自分が悪いと思う美少女」ではないです。
それが当たり前なことを、見る側同士で共有することの方が大事だと自分は思います。
だから「作中ではああだけど、あれ作り物やからな!現実はこうやで!」っての、凄くいい。
商業作品は金銭を払ってもらい見られるものなので、健全な批判批評を受けるのも仕事です。
見て思ったことを語り、現実と虚構の垣根をさだめた上で、影響を考慮してゆく。
そういう姿を自分は望むし、見る側としてもそうでありたいと思っています。